ラオスの風・・ 南の国のミュージアム

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ノンキャオ~ムアンゴイ メコン、ナムウーを上る 3

ゲストハウスに戻って大至急シャワーを浴び、泥が残り無残にもぱっくり空いた傷口を洗いタオルを巻いてボート乗り場に着いたのが出発の10分前だった。昨日持って着たパンを齧って朝食とし、しばしの船旅。帰りの船は一艘では乗り切れず小型の2艘目のボートも用意されたので、予約なくても問題はないんだなと思っていた。

そして下りの船は一時間かからずノンキヤオに到着、早速切符売り場に並びルアンプラバン行きを頼むとすでに満席だという。「それはないよ」と思いつつその横では「バス乗り場行き、こちらですよ」と呼び込みをやっている。見れば船の中で「船のほうが涼しくて揺れなくて絶対いいわね」と話していたボローニャからやってきたイタリア娘も乗り込んできた。

ミニバスで4時間、400円(南バス乗り場までのため)、船だと5,6時間1,300円、今日の場合怪我をしているし、早く戻って治療せねばと納得してというより選択肢もなくバスに乗り込む。このバスは乗り場までのバスで一人50円。

再度、乗り場で切符を買って乗り込むとすぐに出発した。それはいいが、来たとき9人だった同じサイズのバスに数えてみると14人乗っている。そのうち3人が地元の子供だったが、見知らぬ外国人と二人掛けにさせられかなり窮屈の様子だった。

*イタリアや中央アフリカ、フランスに ラオの子も乗る ノンキャオのバス 

帰りは同じ景色ということもあり、ぼんやり景色を眺めているうちにノンストップでバスはルアンプラバンに到着。

予定より2時間早く自宅に帰ったので傷口を消毒し、少し休むことに・・・このくらい放っておけば治るだろうと暢気に構えていたら、隣のラオス人のミーと妻が買い物から帰り傷を見せることに。

「これは大けがよ、すぐ県立病院で縫ってもらわなくてはだめ」、と言っているらしい。ラオ語だが身振り手振りで力説するのでよく伝わる。が、手術とかはJICAの指定病院ですることになっているので、県立病院に来ている同期のS看護師に電話した。彼女がちょうど近くのシニアボランティアのお宅に来ていたので、ものの5,6分で駆けつけてきてくれた。

*心配は 嬉しいけれども この地では 少しの事が 大ごとになる

「やっぱり、地元の病院では心配だと思う。青木健康管理員に聞いてあげる」と言ってその場で電話。「縫合は指定医でやってください。今からビエンチャンに来られますか。最終の5時40分のフライトがあります」・・・これは大変なことになったぞ。この時点で4時過ぎ本来ならボートがルアンプラバンに到着する時刻だ。

お隣のミーが早速、夫を呼びにそして兄のところから立派な乗用車を借りてきて「さあ、乗ってください。すぐ飛行場に行きましょう」と言っているらしい。取るものもとりあえず、「もしかしたら、タイの病院に回されるかも知れないので、パスポートも忘れないで・・」とSさん。おいおいそんなこともあるのかよ。

空港までミーの息子まで家族ぐるみで乗って送ってきてくれた。ほんとうにラオス人は親切だ。家族ぐるみで慣れない国で暮らす私たち日本人の世話を焼いてくれる。頭が下がる思いだ。言葉の壁を越えて人間と人間の付き合いができること親切心が心から嬉しく感謝の思いでいっぱいだ。

*言葉超え 伝え合うもの 思いやり パサラオ ニープン ラオスに住んで

とてもスムーズに空港に着いて、残席があったので席もすぐとれて決まってから一時間もたたないうちに機上の人となったのである。

「おー、ツーレート!縫えませんね」ビエンチャンのフレンチ・クリニックのベルギー人
のドクターは、24時間以上経っているので縫合は遅すぎるという。翌朝一番で病院に着いたときは24時間以内だった2時間近く待たされたのでというのは屁理屈か。金属製の添え木をして薬をもらってあっけなく終了だった。

*ツーレート 簡単にいうけど こちとらは ムアンゴイから 二日がかりだ 

こうして私の短い2日間の旅は一日伸びて3日間になって終わったのですが、予定外のほうがよほど長距離になってしまった。この旅については人に迷惑をかけて大いに反省しています。

・気持ちだけは自信があっても、体がついていかない場合もあるということ。
・気持ちに余裕を持ち、計画的に進め無理をしないこと。
・対応する装備、特に今回は軍手一つしていれば防げた事故だったこと。
・山登りに手にものを持たないようにすること。リュックや肩掛けカバン。
・雨具、懐中電灯、軍手、滑らない履物、応急手当用具など。

*そんな次第で今回は写真もありません。
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by czb12447 | 2011-05-28 11:25 | 旅行・観光

ノンキャオ~ムアンゴイ メコン、ナムウーを上る2


翌朝、6時やかましいほどの鶏の鳴き声で目が覚め、窓の外を見れば川向こうに幻想的な世界が広がっている。これを見るだけでもここに来てよかったなと思えるほど。窓の下の川では早い船がエンジンをかけて出かけたり、おじさんが船の上から顔や頭を洗ったりしているのが見える。
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船は9時半出発と聞いていた。選択肢は二つあった。ゆっくりして朝飯を食べに行く。もう一つの洞窟に行く。ここでも生来の好奇心が勝って、もう来ないかもしれない。ネットで見つけたパノイ洞窟が気になってしょうがない。これが二つ目の失敗。
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村が最近開発して道を整備し売り出そうとしているこの洞窟の情報は少なく、昨日の洞窟に懲りて甘く見ていた。昨夜のずぶぬれでズボンは乾いておらずパジャマに持ってきた薄いズボンをはいて、散歩のつもりでカメラ持っただけの軽装で行ったことがこれまた後悔・・・

ぬれた靴で少々気持ち悪いが、二度と来ないだろう別の洞窟も見てやろうと
看板をたどって村の北の山に向かう・・確かに山のふもとまで10分、そこから山に登って穴まで10分となっている。これも私の足では5,6分でふもとの小屋まで到着、8時台からもうおじいさんと孫のような子供がいて10,000K払って懐中電灯貸してくれる。あわてていてランプすら忘れて、携帯のランプでいいやと思っていたのでおお助かり。
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*雨上がり 朝すがしくも 森歩く ナムウー見下ろす 洞窟(あな)への道
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さて、そこから、山道というより崖道を木の手すりを伝わりながら、息を切らせて、5,6分上る。するとCave1,Cave2・・二つに分かれている。「え、2つもあるの・・聞いてない」と思いつつまず1から。そっちはまだ普通で穴もそこそこ深く天上も高く山の中腹にぽっかり口を開けている。

さて、2はそこからさらに数十メートルの山登り、はしごを登り、手すりを伝いながら進むと入口は、岩が崩れて大人一人がやっと通れるような入口だ。この時点で8時半を回っていた。大したことはないだろうと入りだし、進むとなかなか行き止まりがない。しかも平地だけでなく岩を超えたり下りたり・・まがりくねったり・・・

体感で100メートルほど進んだだろうか、奥を照らすとまだまだ続いているようだ。灯りを消してみた。ほかに誰もいない、異国の山奥の村の山中の穴の中で大声を出して叫んでみた。「おーい!」耳を澄ます・・何にも聞こえないはずなのにいろんな音がする。耳鳴りかな・・・デジャブーという言葉が脳裏に浮かぶ。

*声出して 世界の果ての 洞窟で 我叫ぶ時 わが声返る
 
昔もあったな。あれはエジプトのピラミッドだった。ギザのピラミッドでは湿気に懲りて2個目の郊外のピラミッドには誰も入ろうとしなかった。自分ひとり、その中を下りて行って確かいくつかの角を曲がったのだ。そのピラミッドはあいにく照明が故障していた。

そこで迷子になった。真っ暗な闇の中にひとり残されて、もし出られなかったらミイラ取りがミイラになってしまうってこのことか。一瞬のことだったかもしれないし、長い時間のようにも思えたピラミッドの中での恐怖体験はその後、自分中に滓のように沈んでいて時折浮かんでくる。

もし今 地震がきて洞窟の入口が塞がれてしまったら、あの爺さんは助けを呼んで来てくれるだろうか。誰もいない暗闇にひとり残され、あがいている姿を想像するだけで恐怖心がよみがえってくる。すこし怖くなったことと時間が気になってあわてて出口に向かう事とした。


Cave2を出るとまた手作り看板が目に入り「この上、ビューポイント」の矢印。この時点で8時40分、宿に帰り荷物を取って船着き場まで約30分、20分の余裕がある。誘惑に駆られて「登ろう!また来られないのだから」この時の心境はきっと登山家に近いものだったろう。

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*行くべきか 戻るべきかは 幾たびも 人生航路に 付きまといしか

上に行くほどに更に急こう配となりはしごを登ったり、岩を手摺につかまりながら登ったり・・ようやく峰の稜線にでても下界の景色は見えぬ。あきらめて踵を返したその時だ。岩場に足を滑らし体が宙に舞う、カメラを持った左手をかばって右から落ちたその先の尖った岩におもいきり激突・・・

「やってしまった!」右手は親指の付け根がぱっくり割れて鮮血が飛び散る。幸いほかに異状はなさそうだ。持っていたタオルを傷口に巻いて元来た道を一目散、とはいえ不自由な手で手すりを持つのも一苦労。が、9時半の船に乗らないと今日中にこの村を出ることはできない。
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「爺さん ナム、ナム(水)・・」ペットボトルの水をもらいとりあえず水洗いしてGHに急ぐ。

*汗かいて パジャマであわてる ニープンを 村の爺は いかに思いし

                             (つづく)
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by czb12447 | 2011-05-27 15:08 | 旅行・観光

ノンキャオ~ムアンゴイ メコン、ナムウーを上る①

ルアンプラバンから各ゲストハウスを回ってノンキアオまで送ってくれるミニバスが約3時間で75,000K(750円)、フランス人と二人の日本人を乗せて9名で出発。地元の人はもっとぼろいバスを使い35,000Kで行くようだ。
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広島から来た自営業の青年と乗り合わせたので道中いい話し相手になった。彼は毎年1月位世界中を回っている優雅なバックパッカーくん。ノンキアオに泊まるのでランチをして別れる。

ここから先が船でしか行けない現代の秘境、ムアンゴイ・・・食堂の親父は1時と2時に船があるよというのであわてて船着き場に行ってみれば今日は2時半だという。ややシーズンオフになりかけて便数も減っているらしい。
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初めて乗るラオスの船はめちゃめちゃ効率がいい。狭い船の両端に荷物を載せて中央に向かい合わせで20人は乗せる。乗ってしまえば膝を抱えて身動きできない状態。船主には効率がいいわけです。人が増えれば荷物を重ねて詰めて座るだけ。

*青山は 幾重も峨峨たり 混濁の ナムウー川に 影を落として

ノンキャオは田舎に似合わない高い橋が両岸を結び、対岸にはいくつかのゲストハウスが川を見下ろして建っている。その川では小船に子供が水面をたたく漁をしたり、泳いだりしている。

橋の下から出発した船は緩やかな水面を滑るように上って行く。途中次々と変わる桂林のような山々に見とれたり、角だけ出した水牛の群れ、子供たちの水遊びを眺めながら人工的なものがほとんどない一時間の船旅は飽きることがない。
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結構遅れて2時45分頃出発した船がムアンゴイについたのは4時になっていた。上りは余計かかる、帰りは50分くらいだった。
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降りると数人のゲストハウスの呼び込みが声をかけてきたが、ガイドブックで目星を付けていた一泊1000円の一番高いGHに向かう。だが、そこは景色がよくないのでやめて、たった200メートルのメインストリートをぶらついていると太ったおばちゃんが「宿をお探しかい?うちのバンガローに来ないかね」と誘われ付いていくとリバービュー・バンガローだった。GBでは一番安い一泊400円のGHではないか。

「OK!ここに泊まろう。」「鍵は付いているよ。」後は適当にという感じの宿だ。受け付けもなければ記帳もなんにもない。しかし、ベランダにハンモックが吊ってあって、部屋から川と対岸山が水墨画のように美しい。

早速、荷物を放り出して目的の洞窟に直行・・・これが後悔のはじまりではあったが。懐中電灯とタオル、カメラだけをリュックに入れて徒歩30分の洞窟に向かう。通常30分ところは20分で行く自信があるのですたすた歩いてガイドブック通りの洞窟に向かう。

タム・クワーン洞窟とタム・パーケオ洞窟の二つは隣り合わせで竹の橋で結ばれている。入口で10,000K払い夕暮れで誰もいない洞窟に入る。手前のタム・クワーンは膝くらいの澄んだ水があり、ジャブジャブと。あっけないほど狭くすぐ見終わり、次へ。隣の洞窟へ・・こちらもこれで終わりというほど浅いもの・・ついついもっと奥にもあるのではないかとどんどんいってしまったことが一つ目の失敗。
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後悔先に立たず・・雨期の気候変化や変わり易い山の天気に気をつけるべきだった。そのまま帰れば合わなかったものをホントに急に夕立がやってきて、しかも風交じりのため、見る間にびしょ濡れとなった。

*カウベルを 鳴らして急ぐ 牛の群れ 夕立の中 牛飼いもなく
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しかし、しかし宿にもどるころにはもう雨もあがり近くに屹立する尖った山が雲に覆われ、水墨画の世界を一瞬見せてくれたことが苦労した自分への大自然のサービスだった。

ムアンゴイの夜は聞きしに勝る暗いもの。レストランなのに電気のついている店はわずか。自家発電のため最小限の電気しか点けないので道には家からもれるわずかな光だけ。


暗いままの家並みはたいてい家の中が丸見えで、テレビを見ている家が多い。中国ドラマが流行っているようだった。比較的明るいレストランは3,4軒、その辺で食事をして部屋に戻れば何もすることがない。携帯繋がらず、もちろんwifiなく、しばらくハンモックで川の蛍の早い点滅を見ていたが、疲れていたので8時には蚊帳に入って寝てしまった。お隣の外国人はランプのもとでぼそぼそ遅くまで話し声が聞こえていた。

*空の星 岸辺の蛍 光るのみ ムアンゴイの 夜が更ければ                                    つづく
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by czb12447 | 2011-05-26 01:28 | 旅行・観光

博物館でやっていること

毎回書いているブログの内容がどこかへ出かけたり、人が来たり、暮らしぶりが中心になっていて「お前はどんな仕事を何やってるんだよ」という声が聞こえて来そうです。それで今回は少々任務内容について書いてみます。

JICAのボランティアは開発途上国からの要請によって成り立っているのはご存知かと思います。勝手にこれこれをしたいからやってきたというわけにはいきません。そのために各国に調整員という仕事をする人がいて、派遣先の要望を聞いて取りまとめ年2回のJICAの募集に載せるのです。

それで応募があって選考して合格した方を、年間4回かつ福島県の二本松と長野県の駒ヶ根にある訓練所で65日間の派遣前訓練をしてから派遣国に送り出す仕組みです。二本松は現在避難所になっているため大阪に変更されていますが・・

したがって、相手国から要請があっても見合う人が派遣されてくるのに1,2年はすぐに経ってしまう事があります。そうすると、せっかく要請に応えて張り切って赴任したのにもうその要請は必要なくなっていたり、要請した担当者が代わって「なんで来たの」みたいな顔されることもないとは言えないそうです。

私は幸い、永年博物館が整理が出来なくて困っていた「写真・ネガ保存」という職種で、学芸員経験10年以上を条件とするものでしたので歓迎されています。

むろんこの博物館へJICAのボランティアが派遣されるのは初めてではなく、2000年以来写真隊員3名、考古学隊員2名の派遣実績があります。しかし最後の写真隊員から5年たっており、今まではすべてJOCVという若い青年協力隊員ばかりでしたのでSVシニア海外ボランティアとしての派遣は初代ということになります。

私が赴任して約4か月、当初考えていたような簡単なものではなくなかなか手ごわい作業だという事がわかってきました。

現在の博物館では1900年ころから75年の王制廃止までの写真、ネガ、ガラス原版など約5万点あります。これを時代別、内容別に整理し今後の保存と活用に生かすためデータベスを構築するのが要請事項です。

とはいえ

・半分位は時代がわかりません
・説明がたまにあってもフランス語
・王家の系図がわからないため、写っている人物の特定が難しい
(王家の事情は現政権のもとでは誰も語りたがらず、あまり追求すると怪しまれそうです。実は77年に逮捕され78年死んだとされる国王、王子の消息すらシークレット事項で聞きにくい)
・虫食い、酸化でぼろぼろ
・ネガフィルムは重ねてあったので何枚かがくっついてしまいどうしょうもない

こんな悪条件の中ですが、王家のシサワン・ウオン王、シサワン・ワッタナー王、シアヌークやスワナプーマ殿下、スサノヴォン大統領などの生写真が数多くあって、明らかにされてない東南アジアの歴史を確認する活きた証拠を握っていると思うとわくわくするのも事実です。

これらの資料をいずれ世に出るときの為に、活用を主体にすべてをデータベース化する気の遠くなる作業にようやく踏み出したところです。

ここには書きにくいことですが、上記の事を金をかけずにかつ働かないと言っては言いすぎですが、労働時間の少ない現場の職員たちの尻を叩き・・失礼!命令する言葉もしゃべれないくせにといわれそうですが・・・率先して範を示すしかないところです。

日本だったらきっとどこかの専門業者に委託するか、関心の高いボランティア集めてやってもらうかするのにとつい思いがちですが、お金のないぶん原点にもどって自分の目と手で作業する喜びも味わっています。そう、わたしこそここではボランティアなのですから。

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by czb12447 | 2011-05-19 21:14 | 国立王宮博物館

言葉

外国で暮らすのに欠かせないのが言葉の問題だ。ビエンチャンから来たシニアボランティアのSさんはなしでは首都では日本人も多く、そのコミュニティにいれば日本語だけでやっていけるという。さすが首都というべきか。

ここルアンプラバンのような日本人の少ない地方都市ではさすがそうはいかない。月に数回は集まったり食事をしたりするが、基本付き合う人はラオス人ばかりだ。出かけるr事の少ない家内?でも朝からセキュリティの少年たちとなんだかんだ日本語を教えながら、ラオ語をしゃべっている。

いつも朝買い物に行くお隣のミーおばさんにはよく一緒にタラートにいったり、娘のトーにも週一で日本語を教えている。つまり私以外はラオス人と話をしているわけだ。

月曜日鈴木調整員が見えて館長とはなしをしたとき、私のラオ語が出来ないのでコミュニケーションに困っているのではないかとおはなししていた。それというのもこれまでの5人の前任のJOCVたちはいずれもラオ語がぺらぺらだったからだ。

もちろん私は英語がターゲット言語で来ているが、昔のJVたちは専攻をラオ語として日本で学んできている。私は2週間首都で学校に行ったきりだ。むろんそんなことは館長は知らない。

だが、雑談に溶け込めないのと、館長もこの頃はラオ語でしか話しかけてくれない。これではやはり困るので今日、例の「ひまわりがっこう」のチャンマニーを訪ねて、来週からラオ語を教えてもらうことになった。

さて、これからどう展開するか・・・帰るころには話せるようになるのか、ならないのか?大見得を切っては見たものの自信はない。その結果はここで時々報告します。

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by czb12447 | 2011-05-18 01:59 | 日常

プシーの丘 出会いの丘

ビエンチャンのSV仲間が夫妻でルアンプラバンに来ました。任国外旅行でタイに回る途中です。博物館での日本語ガイドも、こんな感じで来た日本人にサービス精神で説明してあげるのでもう数十組になるでしょうか。

自分の勉強にもなりいろいろ調べる意欲もわいて自分の為と言った方がいいでしょう。入口のシサワンウオン王の銅像の右手に持っているのが経典かと持っていましたが、法典でした。

王の謁見の間のモザイク画も1960年、8人の職人が3年半かかった労作という事もわかってきまし
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た。ようやく写真撮影が終わりましたので、描画内容をこれから調べてみようと思っている。メインの画面はプーニョとニャニョの物語やボートレースの様子が描かれているのはわかるのだが・・

さて、見学の後暑いのを覚悟で328段のプシーの丘の階段を登ってみた。実際に2回目だが前回は来て早々朝登った時は今は博物館で一緒に働いているブンランさん夫妻とナース学校の先生に出会いあちこち案内してもらったのだった。

今回はS夫妻と「意外と涼しくなったね」と景色を楽しんでいたら、地球の歩き方を見ている日本女性がいるので声をかけたら、同じJICAのJOVCでシムリアップから来ている隊員だった。

そのまま合流して、観光客の気が付かない不思議な仏像や仏足、天然の洞窟にも案内した。全部前回連れて行ってもらったところだが・・・途中蟻採りのおっさんがいて木の上の巣を大きな竹の先に付けた袋で取ろうとしている。

が、足元がチクチクする、見ると大きな蟻が足にたかっているではないか。あわててその場を離れたがSさんはお腹まで刺されまくった。後で調べるとプチプチした食感で人気のある赤蟻だそうだ。

一緒に皆で夕食やナイトマーケット巡りをし、シムリアップやビエンチャンの情報交換ができたのでした。
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by czb12447 | 2011-05-14 14:00 | 国立王宮博物館

ルアンプラバンでの日本語熱

ビエンチャンでの日本語熱が下がっているという特集を、ラオスの日本語版フリーペーパー[Taste of Lao]でしていたので心配していた。その割に博物館で教科書を持って教えてくれという人はいる。

昨日は博物館で日本語を学ぶテイが仕事が終わったら日本語を習っているので、覗いてみてほしいという言うので「ひまわりがっこう」にお邪魔した。土曜日の4時から6時のクラスは6人だったが、月曜以外午前午後、夕方、夜もまで何十クラスもあり結構な人数が学んでいる。

先生は女性のチャンマニーさん(27)でご主人は英語の先生。日本には8か月の留学経験と2度の旅行の経験があるという。ビエンチャンのドンドックのLJセンター(日本の援助による日本語学校)にも3年通ったという。

大体3か月で一つのクルーが終わるようで週二回で一クルー合計(150,000K=1,500円
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)の月謝ということだ。ここで日本語を習うにはもう一つ彼女の友人がやっている私塾などいくつかあってそこにいくようだ。

近所のこどもたちに日本語を教えているワイフも見学していると臨時に講師に駆り出され、自己紹介とネイティブな日本語の発音を披露した。

日本人の少ないこの町で、ラオス人によって小さいながらも日本語学校が運営されていることに感動した。名前もチャンマニーさんが自分で付けた、かわいい学校名「ひまわりがっこう」もすべてに手作り感があって優しい彼女の人柄がうかがわれる。
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by czb12447 | 2011-05-08 13:02 | 日常

異国で迎えた誕生日

4月末で電話代滞納という事で回線が切られてしまった。どうも前の住人の方へ請求書が行っていたみたい。ようやく祝日終えて昨日支払いを済ませネットも開通した。

4月30日が誕生日だったのでその様子を書くことにします。いつもゴールデンウイークは結婚記念日、私の誕生日、次が息子、その前後に母の日が来るので何かとお祝い事が多い。ことしはまずゴールデンウイークが関係ないが、ラオスでも選挙とメーデ、その代休と続いて不規則な勤務日程だった。

一度、博物館のお世話になっている関係者を自宅に招待することにしていたので、誕生日は伏せて30日にお招きした。5時と言ったら大体6時はじまりがラオス流。家のポスターを見てなんで言ってくれなかったのとか言いながらそれぞれ一度消えてしまった。

また集まるとそれぞれお祝いの品を持ってくるではないか、申し訳ない。そうさせないつもりだったのに・・・でもナイトマーケットで絵を売っているノイは自分の作品を持ってきてくれたり、やはりバンパノムでの布の村に住むコンも布を持参してくれたり・・・

お店休ませたのかもしれないな。ここの公務員はたいてい副業があって店や宝くじ売り、野菜を売る校長もいる。

ワイフは隣の日本語を教えている娘のターのお母さん、ミーと一緒に何日も前から料理の助っ人をかって出てくれて身ぶり手ぶりで相談してしている。ルアンパバンン式肉汁そうめんのカオプンやルアンパバンマヨネーズのサラダを作ってくれた。

ワイフはJVたちにも手伝ってもらって寿司ケーキや巻き寿司、冷凍サーモンの刺身などをこしらえた。

バンペン館長やら学芸の連中中心に12名のお客様とJVたちで、
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総勢20名のにぎやかなパーティとなった。日本でもこんなににぎやかにやることはないのに思い出に残る異国の誕生日を刻むことができた。

サプライズといえば、始まる直前にラオ語で場所の問い合わせがなん度も来て幸い、言葉がわかる方たちが何人もいるので何かと聞けば、誕生祝の花束とチョコレートの贈り物が届いた。メッセージを見ると二人の息子からだった。メールもないなと思いきやとんでもないだいぶ前から考えて、宅配もないラオスではアカンのでシンガポールに発注しFedxに配達させたらしい。

これまでになく息子二人の連名がうれしかった。

自己紹介したり、さまざまな両国の料理を味見してもらったり楽しい3時間だった。
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by czb12447 | 2011-05-03 17:23

ラオス・ルアンパバーンの暮らしと国立博物館をレポート


by czb12447
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